文字列で語るのは難しいと思う

言葉で語るという事自体そうなのだが、特に文字列にしてしまうといろいろな了解が無いと意思疎通や表現の媒体としてとても難しいものがあると思う。

例えば「杜撰な」。。という表現があったとしてこれを滞りなく「ずさんな」と読めるヒトというのは実は中々いないような気がする。ではなぜわざわざ「杜撰」などという難読文字?を文学作品でもないwebの文章に使うのだろう。(webで文学書いてももちろんよいのですが)

わざわざ難読な語句用字を用いている文章はまず難読である。結果として難解でもありがちだ。
それで論が通っていればいいのだが、わざわざ難読な用字である「杜撰」などという表現をとって誘導された先で、筆者が批判しているある事象が別にずさんでもなんでもない(という表現が不当であるとするなら「逆の当事者からしてみれば至極論理的」な)ものだったりすると、むしろ「杜撰」という言葉を用いているほうの立場の論の方がとても弱々しく見える。

基本的に論は難解であってはならないし、用字用語が難読難解であるなどもってのほかと思う。
それはけだものの雄叫びを聞けとヒトに強制しているようなものだろう。少なくとも俺はそれを聞きたいならむしろ動物園に行くと思う。主張と事情の峻別ができていない文章は何が言いたいのか全く判らない。

自戒も込めてとしなければならない面が多々あるが、今日は始めて訪れたとあるサイトの文章を読んでいてそう思った。「自己主張」と「自己の主張」は違うし、「自己」を自発的に主張されてもやはりそれはとても困るというか。。共感できない。

リアルな空間で直接会話ないしは討論している時ならショッキングな語句や難しい言葉を用いることで機先を制することもできるかもしれないが、ことwebに関しては、その方法で話の流れを自分に持って行くことはとても難しいと思う。読みたいと思わないものは誰も読まないし、ブラウザのウインドウをワンクリックで閉じてしまえばそこで無になる。
読ませたいと思うことを読みたいと思う文章で明快に伝えることと、優れた文章を読んだ時にはその伝える内容を自分の中で膨らませることができるように、自分の「言葉」に対する能力も鍛えていかなければならないだろう。
読む力と読ませる力が今とても重要と思う。(それを間違ってもリテラシーなどと言うべきではないと思うが)

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