このあいだチャーリーさんと話したことの一部であるのだけれども。最近の映画にしろアニメにしろまぁ小説でもある意味そうなのだと感じているけれども、「プロット」がまずありきなのだと。思うに様々な作品を紹介する専門メディアが普及した過程でいわゆるネタばれを防ぐために書いていいことと書いてはいけないことを独立させるためにそれぞれが分化したのではないか。前者がプロットであり、後者がストーリーであると。
その文化が成立して以降、メディアがプロットを伝えるのを読んで育った世代がプロットを偏重したり、プロットを聞きかじっただけで作品全体やストーリーまで理解したような錯覚に陥ったりするようになり、果てには作品を見終わったあとでその難解さから理解しきれなかった時にそれはプロットを諳んじていないからだという勘違いをしてまたプロットをなぞることに逃避しやがて耽溺するようになって、そのようなことの世代間での積み重ねが今の状況を生んでいるような気が少ししている。うまく言い切れないが、最近プロットとストーリーという二つの言葉が気になっている。(完成された作品であればなおさらそれを例えば100人の人が見たとしてまず真っ当な理解に至るのはせいぜい7人くらいだろうし他人の思考を反映したものである作品を真っ当に理解したことで感動を得ることなんかないだろうと俺自身は思っている)
プロットという言葉を世界観と置き換えて、今はそれがもてはやされる時代なんだろう。でも本当の意味での世界観はプロットではなくむしろストーリーや言葉に置き換えられないディテールに宿るものであると思う。
言葉が到達できないディテールをそのまま捕捉できるからこの写真術という不便な技法をものしようと勉めている。