久しぶりに会話文の中で「しかしながら」という言葉を目にして軽い衝撃を覚える。もっとも同一人物から以前受け取ったメールの中にはフツーに「まずもって」という言葉が使われていたりしたのでそれに較べればどうというほどのことでもないのではあるが。
その件とは関係ないけれども。なぜヒトは何かわからないことにぶつかった時に安直に電話して他人に訊こうとするのだろうか。自分で調べた方が理解が深く強固で、独自の解にあたる確率は高いと思うのだが。そして安直に訊いてくるヒトの多くが、自分があたっている問題の本質を理解しないままパニック状態で電話してくるので、まずカウンセリングから入らなければならないのがよくある困った問題。そしてなぜか、導き出された回答が自分の望まない物だったりすると、逆ギレされるんだよなぁ。
さらに関係ないが。瀝青会のMLでEditerNが「ご放念下さい」という表現を用いているのを見てなんと古風な、死語ではないのか...と思っていたのだが、どうやら彼のゼミの学生はみな普通に「ご放念下さい」という言葉を使うようで、その事実がなかなか放念できない俺なのであった。(謎)
相変わらずバタバタとはしているのだけれども、外出して最後のみにいく時に少し遠回りして芋洗坂のタバコ屋でジタンを4箱買う。二ヶ月ぶりくらいのタバコ。喫煙にも禁煙にも隷属していないので別になければないで平気なのだが、やはりマントークをしに行く時にはタバコはあった方がいい。
自分は弱く卑屈な人間なので、もしも禁煙という奴をしてそれに成功してしまったら、禁煙がいかにすばらしくて喫煙という習慣がいかに非合理的で前時代的な愚行であるかを意気高々に喫煙継続者に向かって申し述べて君も早く禁煙すべきだと言い募るようなそんなみっともない人間になることは目に見えている。というかもともと俺はそういう人間なので、恥ずかしいからそんなアホなことはできない。なのでしかたなく、タバコのマナーを忘れないためにも自分のリズムでタバコを吸っている。酒も同じで、酒の飲み方を忘れない程度に、酔っぱらって騒いだりするようなアホにならないように自分のリズムで飲んでいる。
とりあえず。相変わらずジタンはちゃんとタバコの匂いがするタバコだ。
人は あまりに不用意に近づきすぎる、と思うことがある。
近づくことが勇気なのではなくて
ほんの気持ち引いて、その場所に留まりつづけていることが
それは「勇気」という言葉では少し違うようでもあるのだけれど
とても有り難く、そして「勇気」なくしてはできないことであるような
tumblr経由
http://dannnao.tumblr.com/post/36516420
このセンテンスを読むといつも Driving Miss Daisy を思い出す。
小説家や詩人がこぞって写真について語った30-40年前に比して、「文芸批評としての写真論」が退潮したいまははたして、写真の表現にとって良きコトバの時代と言えるのか。自戒を込めてそう思った。
辺見庸によるマリオ・ジャコメリ : FIAT MODES
http://fiatmodes.blogspot.com/2008/05/blog-post_27.html
個人的には写真批評ならまだしも写真家紹介とか写真にまつわる動向解説でしかないような「写真評論」はうんざりというか止めにして欲しいと思っている。それをさしてまぁphotojaponの時代とかポエムとか悪口を言っているのだけれども。
ただジャコメリの写真展も結局みなかったし、この番組も見ていないので、この文章からそれを連想するのは単に自分の中の妄執をこれをきっかけにトリガーされているというだけのことだけれども。写真を専門としない、写真に対して素面であるヒトがもっと写真について語るべきだとは思う。
ポラロイドの独特の描写、というよりポラロイド写真を見る時に受けるその感じを構成している要素には、感材やカメラ自身の持っている光学的化学的特性に基づく独特のトーンやカラーもさることながら、その写真が(一般には第三者によるところの)現像作業を経ずに存在しているから可能である秘密な存在であるということと、その場でドギャーンという盛大な音で排出されるフィルムから浮き上がってくるというあの秘匿性のまったくないカメラシステムに由来する「その場の皆はその写真が撮られたことを知っている」というところにあるような気がする。
例えば恋人の写真をポラで撮るならば、一枚目を撮った瞬間に騒々しい音をたてて写真を吐き出してくるカメラを見ることで、被写体になった女性は否応無しに恋人に写真を撮られているというその時間、その経験を強く意識することになり、おそらくは必然としてその関係性を反応として仕草や表情などに現すであろうから、撮る側にそれを逃さない技量があればだが、他のカメラシステムでは中々撮れない写真が撮れることは多いだろう。デジタルカメラでもたしかに即時プレビューは可能で、写真の確認はできるのだけれども、あの大げさな作動音の祝祭性(謎)と薄ボケた青白い膜面の裏側からぼーっと浮かび上がってくる失われた過去の映像を眺める感覚は決してデジタルカメラでは経験できないものである。
昔ポラロイドカメラで町をスナップして歩いていたことがあり、フィルムが高いのでそういう意味でもかなり気合いがいる作業であったのだけど、何よりも他のカメラシステムで撮る場合と違ったのは、例えばキャンディドのつもりで駅のホームですれ違うヒトを撮ったとしても、レリーズした瞬間にドギャーンという音とともにあの巨大なフィルムがベローンと吐き出されてくるので当然被写体になったヒトは自分が撮られていることを瞬時に察知する。連写をすればボタボタとフィルムをまき散らしながら歩く羽目になるから隠し撮りなどは当然不可能だ。ポラロイドカメラは撮られていることを意識させるカメラでもあるが、そういう意味でいえば逃げ隠れできないカメラでもあり、フィルム代も含めて度胸のつくカメラだ。ポラロイドカメラを使いこなせば擬音の似合う写真家になれるかも知れない。
日本の刑法は、刑を受けて、改悛(かいしゅん)して、改めて社会に復帰する、ということを前提にした教育刑です。それに対して、死刑は応報刑なんです。応報という考えからすると、本人の嫌がることをするのが刑罰。死を望む人に対しては、生かすことの方が、たぶん罰になるわけです
http://dannnao.tumblr.com/post/36416648
改悛して復帰するという思想はたぶん将棋の考え方に通ずるような気がする。チェスや囲碁では死んだ駒が元通りの地位と役割で復活することはない。考え方に通ずるというよりは、そういう思想的な土壌があるから将棋がここまで普及したのかなということか。
アカシアの雨に打たれてこのまま
死んでしまいたい
夜が明ける 日が昇る
あさのひかりのそのなかで
冷たくなった私を見つけ あの人は
涙を流してくれるでしょうか
アカシアの雨に泣いてるせつない
胸はわかるまい
思い出のペンダント
白い真珠のこの肌で
寂しく今日も暖めてるのに あの人は
冷たい目をしてどこかへ消えた
アカシアの雨がやむとき青空
さして鳩が飛ぶ
紫の羽の色 それはベンチの片隅で
冷たくなった私の抜け殻
あの人を探して
遥かに飛び立つ影よ
アカシアの雨がやむとき Lyrics
例によって聴き書きのため用字不詳。
ここでアカシアとして歌われているのはニセアカシアことハリエンジュ(針槐)のことだそうです。季語は夏。樹皮や葉、果実には毒があるけれども花は食用にされ、ミツバチの蜜源としても重要だとか。
というわけで、初夏の味覚をおいしくいただきました。 >誰となく
論語の用句を調べようと思ってうろ覚えの漢字を叩いてgoogle検索したら当たり前のように中国語のサイトが表示されたので「日本語のサイトのみ表示」をポチッと押したのだけど、やはり中国語のサイトしか表示されなかった。やはり中国の一部だと思われているな。(笑)
試みにひらがなを検索文字列に入れてみたがそうすると候補がでなくなる。いやはや。
どうも調べていくとシングルサイズのベッドの標準的なマット上面から床までの高さの値は45cmであるようだ。いま企てているのは床下が45cmのベッドだ。高すぎると思うかもしれないが実家で使っていた二段ベッドはそれくらいのクリアランスがあって、床下に段ボール箱を収納することができた。オヤジがどこかから持って来た。金具や仕様、サイズなどから見て米軍の野戦司令部辺りの官給品だと思う。
マットレスは使わず布団を敷いておくことにするつもりなので、フレームと布団で10-12cmプラスになるとして概ね58cm。ちょっと高いと言えば高いけどまぁ仕方あるまいか。レバー比を考えると1センチでも足は短いほうがいいのだけれども。
しかない
しかない
しかない
ずっと以前から「しかない」という変換候補文字列がある時に変換をかけると しか ない という二つの要素のうち前半の「しか」の部分が「しかない」と変換されてしまい、結果として「しかないない」という文字列が出力されてしまう症状がMacbookさんのことえりで起こっており、何度か再インストールナドしてもまた引き継がれてしまうのでたぶんバグなのではないかと思うのだが、同様の症状はwebでは見かけないようだし。謎だ。
仕方なく「しか」の変換候補に「しか」が出るように調教したりしてみたのだけれども初出の変換候補文字列では文節として「しか」に分解されたとしてもそれは適用されないようで、結局「しかないない」になってしまう。
プラスチックが分解されるまでには何千年という時間がかかる。だが、科学博覧会に参加した16歳のDaniel Burd君は、たった3ヵ月でプラスチックを分解することに成功した。
プラスチックを短期間で分解するバクテリア、高校生が特定
http://wiredvision.jp/news/200805/2008052620.html
団塊の世代も徐々に老人会に近づいていっているのだが、方や「新人類」と言われた我々も今や十分に化石化したおっさんおばちゃんになりつつある。それが現実。
世代でくくられないくらいに重力に逆らっていたいと思う京子の語呂なり。
WOODPRO本店:足場板
http://www.woodpro21.com/13ashiba/
リース上がりの木製足場板を扱っているページのようです。
古材とはいえ魅力的な値段。送料を含めてもハンズで買うより安そう。
枕木水栓とかはもう大流行りだけど足場板もこれから来るか。(謎)
持っていると幸運を呼ぶ生物とされる謎の物体「ケサランパサラン」を、山形市内に住む児童が大石田町の山中で発見した。児童が県立博物館(山形市)に持ち込んだところ、担当者は「確認したのはこの7年でわずか3件ほど」と説明、発見した児童の一家は、神棚に飾って大切にしたいと話している。
travian。
保護期間が過ぎたのに誰も襲ってこない。誰も襲ってこないこの状況では単に変化のない育て系シミュレーションゲームでしか無くてちょっと食傷気味。仕方がないので海外サーバのほうでちょっと弱そうな近隣の村に出兵してみた。もし文句言われたら「ゴメンナサーイ、ニホンゴヨクワカリマセーン」でごまかすつもり。
違うよ。英語だろ。
明日の晩にjpサーバ、海外サーバともにドーピングの効力が切れて生産力が25%下がるので、現在資源開発に注力中。今後は海外サーバで実験的な危ないことをやってみて、jpサーバのほうでは紳士的に猫を被っていこうかと思っている。しかし。
トレードに出されているオファーをいろいろみると、みんな1:1どころか自分の有利なトレードを出しているのが目につく。売り1に対して買2の限界レートでのオファーも多し。まぁこの辺りは資源の迂回のためなんだろうけど。
うちのデスクトップMacさんには(HDDも含む)代々女性名の名前がついているのだが、最近Macbookさんの方を使っていることが多いので(ポータブルマシンには代々男性名がついている)たまに終了再起動をかけたり呪文を唱えるために管理者パスワードを唱えると、「あたしのパスワードはそれじゃないわよ。いったいどこのオンナのよそれは?キーッ!!」と言って怒られる。特にログインウィンドウではねられるとスリップがブルブルブルッと振えるのがちょっとかわいい。萌える。(変態)
真竹の筍が手頃な値段だったのでそれを買い求め茹で中。晩飯はそれの刺身とほうれん草の胡麻和えになる予定。ブリがあとカマ片方分あるのだけど、あれは下ごしらえして冷凍かなぁ。。
お茶請けにガリを食べたり、水分補給にショウガの蜂蜜漬けをソーダで割って飲んだりして、ショウガをたくさん摂って、はやりの風邪対策としている。生薬としてのショウガは侮りがたい。
コンパクトな1-im/1-outのUSBリピーターハブを製品化するべきだと思う。tethered撮影のために。ことにわざわざUSBに接続を変更してしまった某メーカーにはそれくらいのことはやってもらいたい。企業体力もありそうだから。まぁ転送速度の問題はそれでは解決しないけれどもケーブルスパゲティ状態よりはマシだから。
Captureone4.xの取り込みフォルダの視程の件は4βの時から思ったんですけどあれってカメラ側のカードの中身を参照できるでしょう。そのための仕様だと思うんです。
phaseoneはたぶん次のカメラシリーズからデータをケーブルで転送するんじゃなくてカードにファイルとして記録して、それをホスト側から参照して現像して、生成された画像ファイルをホスト側に保存する方向に向かうんじゃないかと思います。ライブビュー的な機能であれば、カードにすら保存しないでバッファのデータを直接開けば良いわけなんで。カメラ側がデュアルスロットになればバックアップの問題もそれで解決できますから。>誰となく
大口客=企業に優しい料金体系
田中氏は、家庭のせいにばかりする現状にも疑問を投げかける。
「そもそも、家庭のCO2排出量は全体の5分の1程度で、大半は産業なんです。でも、大口の顧客である産業界からの、『こっちに目を向けさせるな、消費者のライフスタイルのせいにしろ』という圧力があるので、家庭のせいにされています」
CMで、「電気を大切に」などと、さかんに宣伝されているため、電気の無駄遣いを反省する人も多いだろう。それ自体は非常に有益なことだ。しかし一方で、消費の大半を占める事業者の省エネ対策は、さほど進んではいない。その大きな原因のひとつに、電気料金の設定が挙げられる。
「今、企業は、3年で元が取れる省エネ設備すら導入しません。なぜなら、企業向けの電気料金は、基本料金が高くて単価が一定。使えば使うほど割安になるのです。だから、設備を導入して省エネするメリットがないんです。みんな省エネ製品を導入すれば、それだけで(CO2排出量を)約4割減らせる。仮に3割減らせば、それだけで京都議定書をクリアできますよ」(同)
家庭では、使用した量が多ければ多いほど、単価が上がり、割高になる。このため、消費者は省エネ家電を導入するメリットがある。企業に対しても同じことをすればいいのだ。
「そうしないのは、電気を使ってもらいたいからでしょう。そうすれば、発電所をもっと建てられる。産業界での地位が、もっと高まりますから」(同)
そうして増えに増えた日本の発電所。発電所は、電力需要のピーク時に電気を供給できるだけの数を用意しておく必要がある。日本はピークとそれ以外の時の差が大きく、発電所の稼働率が低く無駄が多いのだという。
「電気事業便覧というデータ集を見ると、日本の発電所の稼働率(負荷率)は60%程度。ドイツや北欧の72%に比べると、非常に効率が悪い。電力需要の波が大きすぎるのです。日本も同じように、稼働率を72%まで上げた場合、4つに1つの発電所を止められます」
オール電化はエコじゃない!?東京電力「企業優遇」の商魂(後編):日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2008/05/post_560.html
まぁサイゾーごとき(笑)の記事ですが。
でも停められる発電所には原発は含まれないんだよね。たぶん。刈羽発電所の運転再開はたぶん無理だろうけど今年の夏はどうなるのか。とりあえず、風通しを良くして眠れるように進入経路になり得ないほうのベランダの近くにベッドを設置して、そこで眠るようにしようかと企てている。ツバメの季節が過ぎたらそこの近くの棚に試しに巣箱をかけてみる。
たまに書き仕事をするようになって以来、査読のための紙出力をすることが増えて、その結果として大量の裏紙が残るようになったのでそれを全部半裁にしてメモ用紙にしているのだがいささかだぶつき気味。仕方なくmandalaを書いたり、いろんな思考を全部紙に書いて一人ブレスト(死語)をしてみたりしている。
主旋律と自分のパートがごっちゃになっている。んーむ。
主旋律が。ミミミ ミミミ ミミファミレミレドレドレ ミミミ ミミミ ミミファミレレドレミ っとやっている最初のミ3つの3つ目に重ねて ミシラ ミシラ...とやるんだよな。
主旋律 俺のパートは下のであっていると思うが。
ソラソドソラソ
ララソラソファミレミド
ソラソドソラソ
ララソラソファミレド
(ミミ) ミシラ ミシラ
ラーミラシ
(ミミ) ミシラ ミシラ
ラー ソファミ レドレ ドレミレ
ソラソドソラソ
ララソラソファミレミド
ソラソドソラソ
ララソラ ソファミレド
実家の近所の特定郵便局が廃止になった。というか「廃業」か。
唯一、事実上の世襲がみとめられていた公務員格であるところの「特定郵便局」の運営だけれども、どうやらもうそんなに美味しい仕事ではないようだ。もっとも俺なんかももう余程の用事がないと郵便局には行かないし、用事がある時はむしろ本局に行ってしまう。
よほど窓口に美人でもそろえていれば繁盛するかも知れないが。
ただ、俺なんぞはまだいいけれども、お陰で実家のオババ@徒歩10分は今までの倍の時間をかけて新幹線の向こう側の郵便局まで行かなければならなくなった。コンビニもどんどん減っているし。リアルワールドのインフラが弱すぎる。ガテン系エンジニアで仕事のできる人間がいなくなっているし。
亡国。
嫁が中学の美術の教師をしていて、「何でもいいからあなたたちがかっこいいと思うものをここに描きなさい」という課題を授業で出したら、ある生徒が用紙一杯に「ムラサキ」とムラサキスポーツのロゴを描き始めたのだそうだ。
「この子たちを相手にどうやってモダンアートとか教えればいいの?..と思ったらもう目眩がしたわよ。どうしてくれんのよ。」と、帰って来てからなぜか俺が晩飯をくいながら説教された。
思考を病気に結びつけないようにする方法は要するにそれを悩みと区別することだと思う。つまり考える以上は必ず解決するまで考える。解決し得ないだろうことは考えない。
まぁそれができれば苦労はないんだけどな。
朝食。
おとといの残りご飯をチンしてえのきの煮付けと梅干しで食べる。脇でほうれん草のおひたしを作り、ホウレンソウをゆでたお湯でブリの切り身を霜降りにする。水2Lとガス代を節約。エコエコ(笑)
白飯を炊き、それとブリとほうれん草は昼食のためにとっておく。風邪気味であることと、暑くなって来たことなどを鑑み、新ショウガの蜂蜜付けを仕込む。あとでソーダを買ってくるつもり。
考えるのは人間だけ。考えるからウツになる。
生き物に必要なのは反応だけ。思考こそ人間の最大の持病。
動物の精神は普段からおおむね人間でいうところの躁鬱の極みのように見えるけれども彼らはそれが常態であることをみとめられているから躁鬱に「病」がつくことはないし、自身も悩まない。命の本質は躁鬱であると思う。理性があるようなふりをするから知性がなくなるのだ。
たぶん。
手帳を新調したのに併せてボールペンも別のものに。今まではrottringの0.2ミリを筆記用にも使っていたのだけど、いかんせんロットリングは製図用でペンを垂直に立てて使う設計であるために文字を書こうとするとどうしても引っかかる。あと致命的なこととして、ハネやハライが表現できない。加えて、今やロットリングの製図ペンも文化遺産に近い代物になっているので日常使用して紛失したり消耗したりするのがちょっとだけ惜しくなり始めていた。
そうしたところへ、このあいだレビューのための散歩写真を撮っている時にペンを忘れたことに気づき、たまたまコンビニで買い求めたゼブラの「サラサクリップ」という銘柄の奴が非常に書きやすくて使い勝手もよかったので、家に戻ってから早速webで調べると0.4ミリのバージョンがあるというのでそれを伊東屋まで行って何本か買い求めて来た。
ゼブラのボールペンは、学校勤めをしていた頃にどうしても支給品のボールペンが書きにくくて馴染めずにぶち切れて文具屋で片っ端から試し書きをして、その中でよかったゼブラの「速記用」のボールペンを総務と交渉して「どうしてもこのペンがないと仕事になりません」と言って買うようにしてもらった思い出がある。最初は向こうも「そんなに変わるわけないでしょう」と渋っていたけど、ブツが来ていろいろなシーンで使っていると、たまたまそれを手に取って使った別の部署のヒトが何も言わずにそれを持っていってしまって、いつの間にか方々の研究室で銘柄指定でそれが買われたりするようになった、そういうことがあって、それ以来何となく親しみがある。
文具趣味の人間ではないので、高級品ではなく無くしても惜しくもない実用品としてのボールペンがいい。今までにもロットリングをはじめとしていろいろなペンを使って来たけれども、bicとか。bicの奴はみなが名品呼ばわりするので使ってみたけど俺の体温が高いのか知らんがインクがボタ落ちしてダマになってしまい、しかも二三時間経っても乾かないていたらくだったので即刻見切った。永いこと、書き物をちゃんとする時は万年筆を使うかさもなくばバブルの頃に買った(といってもそんなに高く無い)トンボのZoomというシリーズのペンを二本持っていてそれを使っていた。それは最近流行のジェルインクでこそないけれども水性顔料インクのボールペンのはしりで、それに合わせて開発されたカートリッジのBK-L5Pは未だにそこここで使われているようだ。
こんど買った(おそらく制式採用されるだろう)ゼブラの0.4ミリは、ボールの直径が0.4ミリという意味で、筆記の速度や紙の性質にもよるが、描線はロットリングの0.3と0.2の中間ぐらいで手頃な太さ。ノック式の宿命でちょっとペン先がぶれる感触があるけれどもなかなか書きやすい。もうすぐキャップ式の固定軸の奴が出るようなのでそちらも試してみたい。
今度は同じ内容が英語で書かれていてメルアドが英国yahooの奴が来た。スパムと判定して削除。
英語で書いてくれたので、俺のインドネシア語の解釈がそんなに外れていなかったことが判ったのでよかった。でも、相変わらず褒めているだけなので削除した。
もうずいぶんと前になるけれども、学校勤めをあがって何年かした頃に、むかし必修の実習だけ担当した学生(女性)に久しぶりにあった時に、「いや、あなたの作品はよかったよ」と言ったところ「どこが何故よかったと思いますか?言ってみなさい」と言われて、うまく言えないでつまったことがある。その時のことは一つの石として自分の中にいまでもある。
本人は褒めたり好意を表明しているつもりかも知れないけれども、根拠のない賞賛はスパムなんだよ。あなたの作品を見てどのように感じてこういう理由で私は素晴らしいと思う..というように明確に表現する言葉を持とうともせず、ただ「素晴らしいです」というのはそれはスパムでしかない。悪意はないにしろそれは何度も繰り返して許されるようなことじゃない。本当に素晴らしいと思うなら、何度でも見直して(可能ならその作品を買い求めて)何故それに自分がひかれるのかを言葉にして作家に対して伝える機会をもつことが、本当の意味でその作家に対するレスペクトを表現したことになるのだとそう思う。素晴らしいと思ったのなら、「素晴らしい」だけを言って済ませるような失礼なことをするべきではない。
毒にも薬にもならない賞賛はスパムだろう。
と思う。
ゴールデンウィーク開けあたりから、100円ショップで売っている安物の老眼鏡をかけて暮らしているのだがもう二つ踏みつぶした。眼鏡の扱い方が身体にある程度しみ込むまでは高いものは買えないなぁと思って練習しているわけだが。でもまぁ、今年の誕生日は眼鏡で迎えることにするつもりなので、猶予はあとほんの少し。
今年こそ、富士山登れるだろうか。もう7、8年ほど毎年この時期にそんなことを言っている気がする。
何もはっきり言わない一言居士とか不思議なキャラクタ属性をもっているヒトを多数輩出している不思議な世代であるところの団塊のヒトたち。一人称は「私」とか「僕」なのに何故か複数形になると「俺たち」。決して「私たち」とか「僕たち」とは言わない。
語尾はかならず「ね」あるいは「それはhogehogeだよ。でしょ?」「違う?」だ。自分だけ気持ちよく言い切ったあとに同意を求めてくる。言い切るだけの見識があるなら本来同意などされなくとも平気なはずなのだが、同意しないとしつこく食い下がってくるヒト多し。
「俺たちは若い」「俺たちは自由だ」をアイデンティティにして来た彼らが、もう若くもなくてさほど自由でもないことがはっきりして来たあと、だんだん歯が抜けるように「たち」も揃わなくなって来た頃に個人個人でどのようなおとしまえをつけていくのか。後学のためにじっくり拝見しますよ。
いずれ順番で、次は俺の番だから。
世をみる限りでは、言い回しの「言い切り+同意要請」という様式はしっかりジュニアの世代にも受け継がれているように見える。上を見ても下を見てもそういうヒトに必ずあたる。自分の意見を述べろと言われると、自分のその問題に対する取り組み方を述べるのではなく自分の考えを述べてしまう不思議なヒトたち。
子供の頃は大嫌いだった大根のみそ汁のよさが最近少しわかって来た。もっともおふくろが作る奴よりは俺が作る奴のほうが幾分か美味いはず。ちゃんと臭み消しのための処理をして出汁もとっているし。
なんてことをいうと。「うるさい。私は欠食児童で育って美味いもんなんか食べたことないし、男ばっか3人も働きながら育てておまけにあの気難しい父ちゃんかかえてやってるんだ。お前にどうこう言われる筋合いはない。だいたいお前と来たら、私があれだけ苦労して最高学府まで出してやったのに嫁には逃げられるわ、(以下定型文)まったくふがいない」なんて言われるのがまぁオチなので、たまに言ってみたりしている。そもそも、さすがに最近味覚も怪しくなって来たようで、すこしずつ味が濃くなって来ているようにも思う。
たまに煮物なんかを作って持っていって「ん。美味い」「まったく嫁をもらって出て行ったとたんに料理がうまくなりやがってホントにふがいない」などと悪態をつかれてみたり。
両親そろってまったく碌なこと言いやがりゃしねぇ。
とりあえず最高学府は関係ねぇだろう。
つーか。
こんなことになる前に店は「今日は二人とも帰ってください」って言わなきゃダメだし、その片方が店の名前をもろに出してweb日記に晒しているのって明らかに変。そういう店だと思われたら誰が責任とるのかってことですよ。それができなかったために潰れた店、子供の頃から何軒もみてます。
最低限それくらいこと考えたらどうですか。
自分の正しさのために何を危うくさせているのかを。