Archive for the ‘未分類’ Category
自分のカメラを持つことと同様に自分のキーボードを持つことが重要だなと昨日再認識した。ここでいうのはもちろん所有権の問題ではなくインターフェイスとして自分の体に馴染んでいてそのデバイスを手にしたときに自分の撮るあるいは書くというパフォーマンスが最適化されるようなそういう完成をみるようなものということになる。この場合はあくまでもインターフェイスとしてのキーボードの話であるけれども現実にはキーボードは表示デバイスと一体でしか機能し得ないものであるからそれらをホストするOS/IM/も含めた総体として
そう思う理由というのはつまり紙に書いているときには思考に対する割り込みが比較的に小さく自由な発想が広がりやすいのに対してキーボードで入力しているときにはミスタイプや誤変換の対処にイラッと来る瞬間というのが必ずあり、それが思考をスポイルしている面もあるのではないかと昨日たまたま感じたからだ。実のところ昨日はキーボードを叩いていた訳ではなく紙の手帳に文字を書きながらそれを感じた。思考に割り込みが入るとせいぜいなし得ることというのはその場の論議のアウトラインを拾うことくらいとどまり、会話の流れを把握しながらそれをコントロールするようなセンテンスを組立てていくにはやはり自然な入力デバイスが欲しい。まぁ実のところ昨日のシンポジウムの場合は思考を遮って俺をいらつかせていたのはIMに頼り過ぎて手で字を書かなくなっていることから漢字がすぐに思い出せずにテキトーな字で書いてみて「こんなんじゃないだろアホか>俺」といらついていたせいだったりするのだが。(謎)
いま一番馴染んでいるのはiMacに繋いでいるHHKのキー配列とタッチだけれどもiMacを持ち運ぶはほぼ不可能だ。可搬型であることを前提にするとiPadのようなデバイスかノートブックになるのだろうが、それに付随するキーボードに普段から馴染んでいなければならないのでテキストの入力(ひいてはこのweblogの更新なども)についてはそのマシンでやるようにするべきなんだろう。となると出来ればユーザー辞書の内容なども同期していてほしいし… などと思い出すとまた結局収まりがつかなくなる。iOSデバイスとMacの間でユーザ辞書も同期できるならばキータッチには目をつぶってAppleのBTキーボードを使えば言い話なのだけれども
結局のところ、まだしばらくは紙にアウトラインを書いてからまとめるという方法が有効なように思える
ケータイ電話のおまけとして組込まればらまかれた野良カメラの蔓延以来「肖像権」という言葉を援用したりプライバシーに関する考えの拡張として「撮られない権利」ということが言われ、例えば仕事で街の写真を撮るときでも「個人が特定できないように」という曖昧なモラルがしかれ、ヒトの暮らしが写真に写ることがなくなって来た。一方で素人の撮るピースサインの酔っぱらいの群れや乱痴気騒ぎの写真は山のように撮られるようになり、もしこの瞬間に歴史が断絶して再びまた奇跡的に文明が起こり文字や写真を解する生き物がこの天体の上に跋扈するようになり残された写真を見ることがあったとしたら、無人の街の景色(たまに写っているヒトはぶれていたり顔に不思議なモザイク処理)とばか騒ぎしている酔っぱらいの写真以外ないこの時代のことをどう解釈したりするのだろうという思いはある。
ただまぁ。こうして闇雲に群衆を撮っていても通念としての言葉に照らせば単なるヘンタイでしかない
撮らせてくださいと頼んで。思い切りカメラを意識してもらって撮ればなにかに通ずるところはあるのかなと最近思っている。思い切り構えてもらえば構えて構えてそれでも隠しきれないものが出て来てそれが本当の意味での自然な姿になるのではないかという。たしか榎本敏雄さんがそんなことを書いていたのを高校生の頃に読んだ覚えがある(詳細失念)







