タグ付けやマージの作業のために過去にアップした写真の「写真だけ」のビューでのページを見ているのだけれども、何となく落ち着かない。表現をものしているという意識はないのだけれども、考えている事をスポンとそのまま出すという意味ではやはり言葉はあった方がいい。言葉で考えて写真で答えているのだからだろうか。
言葉を必要としない写真というのはあるだろうが、もしも何らかの言葉が必要ならそれは評論家やレビュアーが添えるものではなく、自分の写真に寄り添うべき言葉は自分で書くべきだとそう思う。
言葉を必要としない写真という事で思い出すのはDuane Michals。
彼のシークエンスの作品の中でもとりわけ "Chance Meeting" [Link] には一切の説明が必要ないし、何の言葉もない。単写真ではないという点で狭量な写真の枠組みからはみ出している部分はあるが、イメージで何が語れるかという見方に立てば、果たして写真を使わずにこれを言葉で書けるかということを考えれば正に写真の特質が鋭く現れた作品であると思う。学生の頃初めて買ったPhoto pocheシリーズのDuane Michalsの刊の冒頭に収録されているこの作品が俺はとても好きで、これを初めて見た瞬間からやられているし、写真が好きになって、俺はこれとは違うことをやろうとシンプルに思った。まぁそれは余談。
言葉を必要としない写真作品として際立った特徴を持つ作家である彼が、写真に言葉を書く作家である事も面白いなとは思う。
Posted on 2009年4月28日, 7:26 PM, by dannna_o, under
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Posted on 2009年3月16日, 2:25 AM, by dannna_o, under
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意識が表に出てくると人は妄想に囚われる。
直感は妄想に支配されない。
Posted on 2009年1月27日, 4:52 PM, by dannna_o, under
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Posted on 2009年1月27日, 4:39 PM, by dannna_o, under
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写真のオリジナリティとか先行者の著作権が後発の者の発表に対して優位にあるかとかそういうことは裁判の裁定に任せるとしても、写真には表現のほかに recordとか tele-presence としての側面もあるから、もしも丸田氏の要求が認められて小林氏の写真集の流通が差し止められたりすると、後の研究者や廃墟ファン(謎)は問題の廃墟物件のカラー写真を見ることができないという結果を呼ぶことになる。なぜなら丸田氏の写真はセピアトーンに変換されているからカラー情報を失ってしまっている。個人的にはその一点だけを取り上げてももう全然別の表現と思うけれども判断する立場ではないのでそれを声高にいうつもりはないんだけど、もしも先発主義で小林氏の作品を退けるのであれば、丸田氏の原盤がもしカラーならば、調色前のフルカラーの写真も資料的な意味で何らかの形で提供することを考えてもいいだろう。というか、訴訟に訴えるならそれは義務でもあるのではないかと思う。
写真は作家の表現であるにとどまらず、同世代から未来に向けて世界を生きる個々の人間の共有財産目録でもあるのだから。
Posted on 2009年1月12日, 2:59 PM, by dannna_o, under
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